文学部横断型人文学プログラム

横断型人文学プログラム

共通基礎科目

文化交渉入門

イントロダクション

 フランス文学科の福田耕介先生による講義でした。
 フランスの監督 アニエス・ヴァルダの映画『幸福』(1965)は、遠藤周作の小説『どっこいショ』(1966-67)にどのような影響を与えたのか。『幸福』の映像と、『どっこいショ』の場面を確認しながら考えていきました。
 いずれも夫の不倫を扱った作品ですが、『幸福』では裏切られた妻が自殺するのにたいして、『どっこいショ』では愛人のほうが自殺します。『幸福』のなかで描かれた女性像に対する遠藤の批判――浮気されたくらいで妻は死なない――が、『どっこいショ』に反映されているという、映画と文学との交渉の興味深い一例を見ることができました。

文学①

 英文学科の永富友海先生による講義でした。
 19世紀産業革命期のイングランドにおける文学と疑似科学がテーマです。
 産業だけでなく、産業の目まぐるしい発展スピードに疲弊した精神が引き起こす狂気の発生率でも世界をリードしていた当時のイングランド。ドイツ人医師メスメルが考案した催眠療法(メスメリズム)は、そうした、精神に対する関心が必然的に高まる状況のなかでブームになりました。
 さらに、ブームに呼応するかたちで、文学のなかにもメスメリズム的な空間が作られます。
 チャールズ・ディケンズ『オリバー・ツウィスト』(1837-39)や、ウィルキー・コリンズ『ザ・ムーンストーン』(1868)には、催眠状態に陥っているように、自分に起きていること、自分が取っている行動を認識できない人物が登場するのです。

思想・宗教

 史学科の川村信三先生による講義でした。
 「日本のなかのヨーロッパ」と題した、キリスト教をめぐる、16世紀の日本と西洋との文化交渉についてのお話です。
 それまで城外追放の対象であったらい病患者たちに対する手厚い看護、極貧者の埋葬をするという、神道における死穢(しえ)のタブーを無視した行為――一部の日本人のなかに生まれたこのような慈愛の精神は、キリスト教宣教師たちの活動の成果によるものでした。
 宣教のためにはまず、日本文化への「順応」による友好な関係の構築が必要だと説いた、ナポリ王国出身の宣教師ヴァリニャーノ(1539-1606)の功績にも、講義のなかでは注目しました。

スポーツ

 保健体育研究室の鈴木守先生による講義でした。
 他の国へと伝播されたスポーツは、技術とルールさえ変わらなければ、同じスポーツといえるのでしょうか。
 フェアプレーを重んじる英国のフットボールは、詐欺師的なテクニックをスキルとみなすブラジルサッカーへ、日本の柔道は、オリンピックの重要な競技種目「JUDO」へ、その一方で、アメリカのベースボールは、日本に伝播されると、武道精神を取り込んだ「野球道」へと姿を変えました。
 スポーツは、技術とルールの固定化された体系ではなく、社会的価値を反映して変容する文化的体系なのだと、先生のお話をとおして実感できました。

演劇

 文学座ご所属の演出家、鵜山仁先生による講義でした。
 戯曲(文字テクスト)を舞台(ライブアート)に乗せるときに大事なのは、登場人物の台詞を音としてどう表現するか、ということ。
 役者は、台詞が具体的に何を意味しているのか、誰にたいして、どんな気分で発せられているのかを考えながら音を作らなければなりません。
 音作りがどのようなものであるかを体感するために、先生のアドバイスのもと、数人の学生が、シェイクスピア『ハムレット』の主人公ハムレットの独白シーンを読む時間もありました。

芸術

 法政大学能楽研究所にご所属の中司由起子先生による講義でした。
 日本の古典芸能のひとつである能について、多くの日本人は、実はあまり良く知らないのではないでしょうか。
 能は、様々なテーマを歌と舞で表現する歌舞劇で、江戸時代までは猿楽とも呼ばれ、狂言に見られるような滑稽な要素も含んでいたそうです。
 講義のなかでは、能にとって最も大事な要素である能面に焦点を当てながら、顔の演技を排して所作だけで感情を表現するこの特殊な芸術の変遷をたどっていきました。
 高尚でやや敷居の高いイメージがある能ですが、最近では、外国人風の面をつけたエルヴィス・プレスリーの霊が、ファンの女性の前に現れて舞う英語能のような、新しいスタイルの能も上演されています。
 能は現在も変化しつづけているのですね。

文学②

 フランス文学科の小倉博孝先生による、テクスト解釈についての講義でした。
 文学においてテクスト解釈を行うというのは、具体的にどのような行為を指すのでしょうか。
 作者は、読者に暗黙の了解として受けいれてもらえるようにテクストを書き、読者は、テクストに散りばめられた言葉や表現を辿りながら、作者の意図を無意識のうちに汲みとる――テクスト解釈とは、そのようにして無意識に理解したことを、読者が自らの手で「意識化」する作業であるというお話でした。
 実際に、フランソワ・モーリヤックの小説『テレーズ・デスケイルゥ』(1927)冒頭部分とパトリシア・カースのシャンソン『きれいだねって言ってくれる』(1993)のテクストを用いて、皆で「意識化」する作業も行いました。

テクストを読む

イントロダクション

 ドイツ文学科の中村朝子先生による講義でした。
 講義のタイトルになっている「テクスト」とは何でしょうか。「読む」とはどういうことなのでしょうか。
 「テクスト」は、ラテン語のテクソー(織る)に由来していて、つながりを持って織られたものを指します。
 「読む」は、解釈することです。
 小説の一場面のような文章を用いて「テクスト」を「読む」行為を実践しながら、行為の意義についても考えていきました。

歴史のテクスト

 史学科の中川亜希先生による講義でした。
 歴史学の分野では、歴史を研究するために使うあらゆるものを「資料」ではなく、「史料」と呼びます。歴史のテクストとは、この「史料」のことです。
 講義のなかでは、ローマ皇帝ネロに関する史料を取り上げながら、史料批判の重要性について考えていきました。
 ネロは、ローマ大火を引き起こした暴君として知られています。ですが、彼を放火犯と断定する記述は、ネロの死後に生まれたためにネロを知らず、ネロの家系(ユリウス・クラウディウス朝)自体を中傷している歴史家によるものなのです。
 真実だと思い込んでいることは、実は真実ではないかもしれない――ネロの人物像について再検証していくなかで、大事な気づきを得ることができました。

芸術のテクスト

 フランス文学科の博多かおる先生によるオペラについての講義でした。
 オペラのテクストとはどのようなもので、文学のテクストとの違いはどこにあるのでしょうか。
 アレクサンドル・デュマ・フィスの小説『椿姫』(1848)と、『椿姫』を原作としたヴェルディのオペラ『ラ・トラヴィアータ』(1853)を比較しながら見ていきました。
 特に注目したのは、恋人の父親に恋人との別れを迫られてヒロインが嘆く場面です。小説ではこの場面を後から語りますが、語り手が居ないために時間を巻き戻しづらいオペラでは、時間軸に沿って歌わざるをえません。その代わりに、オペラでは、例えば、「死んだほうがまし」というヒロインの暗い台詞を、ハ長調(♯も♭もない、明るくクリアな調)×8分の6拍子(ヒロインの胸の動悸を表すような切れ切れのリズム)に乗せることで、小説とは違う方法で、小説が狙ったのと同じような悲劇的効果を生み出そうとするのです。
 表現媒体が変わることで新たに生じる面白さについて、実感することができました。

映画・映像のテクスト

 英文学科のブライアン・ロック先生による講義でした。
 20世紀のアメリカ白人が持っていたアジア人観について、ハリウッド映画のなかでのアジア人の描かれかたをもとに、考えていきました。
 まずは、アジア人女性観について。1960年代から80年代位までのハリウッド映画に登場するアジア人女性は、女性らしさと男性に対する従順さを持ち合わせた、当時のアメリカの白人男性が求める理想の姿として描かれます。
 次に、アジア人観について。バディを組んで敵に立ち向かうストーリーの場合、バディの構成員は白人と黒人で、敵はアジア人(特に日本人)というパターンが多く見受けられます。
 いったいなぜ、こうしたステレオタイプが生まれたのでしょうか。
 フェミニズム運動によって社会進出を果たしたアメリカの白人女性に対する、アメリカの白人男性の不満。
 第二次大戦前まで白人が行っていた、黒人に対するむごたらしいリンチの罪を、第二次大戦の際に共通の敵となった日本人に転嫁したいという願望。
 映画のテクストを通して見えてきたのは、歴史というものの暗い一面でした。

身体のテクスト

 保健体育研究室の吉田美和子先生のご登場です。
 「テクストは文字でなくてはいけない」という固定観念を取り払うところから、講義ははじまりました。
 わたしたちは普段、わたしたちの身体を、無意識の領域にあるものとして適当に流してしまいがちです。講義のなかでは、わたしたちの身体を、意識すべき知的なものとして、内側からとらえ直していきました。
 ボディワークの実践タイムでは、教室のなかに居るすべての学生が2人1組になって、肩甲骨を意識して動かしてみるという面白い試みがなされました。
 加工(ピアスの穴やタトゥー等)されなかった身体など昔からないという視点から、「何パーセント残っていたら自分の身体といえるのか」について考える時間もありました。
 ちなみに、ある調査によれば、勤怠管理のために自分の皮膚のなかにチップを埋め込まれることを拒否した人は、全体のわずか2割だったそうです。8割が承諾したというのは、個人的には驚かされる数字でしたが、皆さんはいかがでしょうか。

メディア・ジャーナリズムのテクスト

 新聞学科の碓井広義先生による講義でした。
 テレビ報道の意義は「広く伝えること」。伝えかたは、報道系番組のタイプによって大きく違いが出ます。
 ところが、最近、ニュースがワイドショー(事実確認や取材手順の遵守が十分でない報道)寄りになっている傾向があります。視聴者はテレビ局にたいして、説明のわかりやすさや、不正に対する正義感の演出などを求めており、テレビ局側も、視聴率を取るために、視聴者の要望を優先するようになったのです。
 こうした現状を踏まえたうえで、放送後に視聴者からの批判に晒された『浪江町警戒区域~福島第一原発20キロ圏内の記録~』(2011.5.14, NHK)を観ながら、報道のありかたについて、ひとりひとりが考えていきました。

文学のテクスト

 ドイツ文学科の中村朝子先生による講義でした。
 ドイツ語の抒情詩のテクストが持つ視覚性と聴覚性について、17世紀から20世紀半ばまでに作られた数多くの作品を見ながら考えていきました。
 ここでは、視覚性について書きます。
 17世紀バロックの時代に、図形詩という、文字で絵を作る詩が現れました。絵を見ただけで全体の内容がすぐにわかるという特徴を持っていましたが、半面、読むのは楽ではありませんでした。各詩行がばらばらの方向を向いていたり、下から上に向かって詩行が続いていたりといった、詩人による巧妙な仕掛けがなされているため、かなりの集中力が必要だったのです。
 図形詩は一旦廃れたものの、19世紀後半に再び流行します。
 しかし、第二次大戦後には、詩人の明確な意図を含んだ図形詩とは対照的な、曖昧さを含ませて、読み手に答えをゆだねる具体詩が多く登場してきました。それは皮肉にも、戦時中にナチスが用いたようなわかりやすく断定的な言葉を、詩人たちが避けるようになった結果でした。
 ドイツ詩は、読み手の能動性を喚起するものから、主体性を喚起するものへと変化していきました。そして、その変化の背景には、ナチスという、読み手(ナチスの言葉を受け取る国民たち)の思考力を根こそぎ奪うテクストの存在があったといえるでしょう。

受講生の声(2018年度)

  • 批判的にテクストを読むことが、決して作品に対して否定的にとらえるということではないことを学んだ。(哲1年、女性)
  • 歴史学についても同じことがいえるが、物事をひとつの視点だけで見てはいけないということが分かった。その事実そのものだけを見るのではなく、背景を見ること、またどのような立場に立った時の意見なのかということをよく吟味し、理解しようとすることが大切だと考えた。(史1年、女性)
  • 今まで国文学ばかり読んできたので、独・仏・英の文学や芸術にふれることは、とても新鮮であったと同時に、大変おもしろい内容で毎回授業が楽しみだった。また、どの文学、芸術も当時の文化や環境のコンテクストが含まれており、今まで無意識にふれていた部分をこれからは意識してみたら、鑑賞の仕方、味わい方に新しい可能性が秘められていると思う。(国文2年、女性)
  • その物事には表面上の意味とそこから拡張された意味・意義があることを学んだ。ただ見て受容するだけでなく、批判的または客観的に分析することが重要だと思った。(英文1年、男性)
  • ただ与えられた情報や知識を鵜呑みにするのではなく、まず疑いの目を持って考えてみることで、新しい気づきや発見をすることができると思った。(独文1年、女性)
  • 自分の興味以外にも様々な面白い学びがあることが分かって、視野が広がった。(仏文1年、女性)
  • 人に伝えたいことを伝えるためには、どんなものにもテクストになり得るのではないかと思った。そして、それを理解するためには背景知識などが受け手には必要とされ、相互のコミュニケーションに近いものがあると思った。(新聞1年、女性)